プロフィール

生まれ

1974年4月15日、北海道で自営業を営む両親のもとに生まれる。生まれた時の体重が4KGオーバーで巨大児だったらしい。

家族構成(2019年)

妻、犬(2匹)、猫(3匹)

1.小学~高校

小学4年~6年まで少年野球チームのキャプテンを務める。ホームランが打ちたくて(グランドの構成上ランニングホームラン)毎朝家の裏庭でティーバッティングの練習をした。そのおかげか、球に当たればボールはよくとんだけど、足が本当に遅かったのでホームでアウトになる事が何度かあった。でも、ボールが良くとんでいたので、このころから反復練習の大切さは感じていた。

中学1年生のころ、親にたのんで柴犬(TOM)を飼い始める。残念ながらしつけは全く入っていなかった…。生まれて初めて犬を生活する。

高校では、部活(ラグビー部)、友達とカラオケ、食べる事、女子の事で脳みその99%を使っていた。(まるで獣のよう)その結果、高校2年の学力テストで466人中465位の点数をとった。(最下位でないのがまた中途半端…)今考えると勉強をおろそかにして欲望のままに生きていた結果だと思う。

アメリカへ留学

散々な成績だったにも関わらず全く危機感無し。改善するための努力は特にしていなかった。また、周りの友達が大学進学のための準備を始めていたけど、全く焦りが無かった。大学進学に魅力を感じられなかったのだと思う。その頃、父親から「海外に行って勉強して来なさい」(命令)の一言。一つだけ選択肢をくれた。

「アメリカに行くか? イギリスに行くか?」

父親はこのままだとどうしようもない人間になってしまうと思ったのだろう。そんな親の悩みとは裏腹に、その時私の心境は、「大学受験勉強から逃げ出せる」そして、「次やることが決まって安心した」だった。(本当に残念なやつだと思う)。なぜアメリカを選んだのか?当時自分の部屋の壁にMCハマーのポスターが張ってあったのを覚えている。どこかでアメリカに憧れがあったのだと思う。卒業式の2か月後にはロス・アンジェルス行きの飛行機に乗っていた。(両親には本当に感謝です)

アメリカで

南カリフォルニアでホストファミリーのお世話になりつつカリフォルニア大学のESL(English as Second Language)プログラムに参加。英語の勉強なんてろくにしていなかったので苦労した。特に、リスニングとスピーキング

いつもモジモジしてて、ホストマザーに”You have to tell us at least ‘Yes’ or ‘No”! (あなた、”はい”か”いいえ”ぐらいは言えるでしょう!)

とよく指摘されていた。でも、何を言っているか理解でなかったので、どう答えて良いかわかるはずがなかった。ここで初めて「これは大変な事になったぞ」と思った。(気づくのが遅すぎる)

そこで考えたのが大好きなコメディーをテレビを見てリスニングを鍛えること。シリーズもののコメディー(Seinfeld)を一つ選んで繰り返し見た。ストーリーを覚えることで、台詞の一言一言を聞き取ることに集中できる。同じ役者の英語を何度も聞くことでだんだん言っている事がわかるようになってきた。(やはり反復練習は大事)1人が理解できるようになると徐々に他の役者の英語もわかるようになっていった。

ホストファミリーとは1年弱でお別れして、一人暮らしを始めると同時に地元のコミュニティーカレッジに入学。それから間もなくして猫と同居。2年半かけて一般教養の単位を完了して4年生大学への編入を考える。サンフランシスコが楽しそうな街に見えたので(本当に楽しい街でした)すぐに編入手続き。何とか受け入れてもらってレンタルトラックに猫と家具を積んでインターステート5(フリーウェイ)で北上。SFでは、約2.5年かけてBachelor of Science, Industrial Technologyという学位を取り一応父親との約束を果たす。アメリカに着いてから、大学卒業(日本でいうとこの4年制の大学)までトータル7年弱かかった。助けてくれた友達や両親には感謝です。

東京で就職、そしてフィンランドへ

サンフランシスコのジョブフェアーで某ヨーロッパ携帯電話の会社の部長さんと出会う。それが縁で東京で3か月のインターンシッププログラムに参加、そのまま同社日本法人へ入社。トータル9年のうち最後の3年弱をフィンランドの本社で電話部品の購買担当として勤務。海外生活は初めてではないと言っても学生とは違い、(当たり前だが親からの仕送りはない)海外で仕事して給料をもらって生活するという大変貴重な経験をさせてもらった。例えば、多国籍な社員とのやり取りでは日本人同士にある「あ・うんの呼吸」というものが無い。自分の考えをしっかり主張することを学びながら社内で注目されていた新カテゴリー製品の立ち上げに貢献できた事、また初めてチームを任された事などなど。

なぜか今詳細に思い出せる事は失敗の数々。やはり失敗の方が学びとして記憶に残るんだなぁ。

当時の上司やチームメンバーには感謝してます。仕事も大変だったげど、北欧の冬はもっと手ごわかった。寒さもそうだけど日照時間に短さが体・心を蝕んでいた。

この時から、「ストレス」で寝れない、胃の調子がいつも悪い、しまいには「オレってうつ病かも?」というスパイラルに落ちていった。

結果、 5年ぐらい滞在するかと思っていたが3年弱で帰国・転職する事になった。

再び日本へ、現在

帰国後、7年間外資系化学品製造会社につとめた。5年間は購買で、最後の2年間がサプライチェーン部所属。建付けは外資系だったが中身は99%日本人社員で構成されており実際の業務は日本人により遂行されていた。この会社でも学ぶところが多かった。大半のタスクが決められたプロセスに乗り、上司の管理下の基に進められる。間違えない事が1番重要。逆に自由な発想で新しアイデアを出して育てるという文化ではなく窮屈に感じられる事もあった。この会社在籍中にドーベルマンのライが家族として加わる。

現在は外資系製薬製造会社で購買部に所属。2018年の秋にローデシアンリッジバックのチリをパックに迎える。